和光第2小学校新設分離を求める陳情

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更新が遅くなりまして申し訳ありません。

16日の委員会で審議された和光第2小、新設分離を求める陳情の分です。


質疑では、大野委員から
1) 増築を続けていくことで、今後迎える立て替え時期が校舎ごとに異なる
ことへの懸念。
2) 将来的には体育館の増築もあるのか
3) 災害避難場所としての体育館の収容能力
4) 1年保留して検討せよ

という質問がされ、
2)体育館の増築はないこと
4)1年延ばした結果、増築では説明がつかない
という答弁がありました。


寺田委員は
1)23日の全保護者向け説明会、具体的な中身は?
2) 大規模化がもたらす子どもたちの落ち着きへの影響。
3)グラウンドの狭さ
4)西島松の見直しも小学校のためなら理解が得られるのでは
などを質問し、

2) 今年から保健の先生も増員となり、2名体勢で子どもたちを見守る
3)和光小のグランドは児童数800人以上の柏小の1.3倍ほどある
4)西島松は先延ばしできない
という答弁でした。


前佛委員からは市長がかねてから言っていた「米百俵の精神」はどうするのか質し、市長からは明確な答弁はありません。


鷹羽委員は
空き区画が、議会で答弁されている690区画よりも多いことを指摘し、新設断念を表明したあと、黄金への人口流入がストップしているのではないかとの質問がありました。

全委員が小学校は新設に積極的な立場だったので、慎重論からの質問がなかったことは少し残念です。
私も建てることには積極的ですが、あらゆるリスクを考慮した上で、建てるという方向に進んでいくほうが、健全ではないかと思っています。

総務文教委員会では全会一致で陳情が採択すべきとされました。
「市民の会」の委員が入っていないので、本会議で全会一致となるかはわかりませんが、陳情が採択されることはほぼ確定的です。


文科省への補助の概算要望をするのが4/28とのこと。
この時点で「増築」の補助要望をしてしまうことで、「新設」が難しくなるのではないかという懸念も委員からは示されておりました。

時間がないことを理由とせず、十分な議論を尽くしていきたいと思います。

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コメント(26)

TITLE: 第2和光小新設について
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私は黄金町に家を建てました。
そして、子供が生まれた矢先に新聞で和光小学校の新設の断念のことや
増築になることを知りました。
小学校の情報が欲しくてインターネットで調べていたところ
ようやくこちらのブログにたどり着き小学校の現状を知りました。
その後の情報を知りたくてもどこにも情報は無く
広報えにわ4月号を見ても「恵庭は子育てのしやすい町」などと書かれているのが先で
「小学校新設断念」という記事は数行しかありませんでした。
既設小学校の現状や今後の見通しについて
新設を断念した経緯の説明や、新設に向けてのどのような「努力」がなされたのかなどが
全く書かれておらず、「増設で出来る限りの対応をする」という
曖昧すぎる「ひと言」が書かれているだけでした。
そして、これも新聞報道で知ったのですが
特別教室が無くなり、そのかわり多目的ホールという「場所」を作り
そこを特別教室として使いまわしをしようとしているとのことが書いてありました。
小学校建設について本当に真剣に議論されたのでしょうか。
たった数日で
「財政難だから新設しない」と決定するのは安易過ぎるし
そもそも対応できないのならば
小学校用地を事前に取得し、その土地周辺を宅地開発しなければ良かったのではないでしょうか。
何故小学校新設という話が出たのか?
それはその場所に小学校が必要だと検討されたからなのではないでしょうか。
それなのに、既存の小学校を増設しただけで足りるはずがありません。
他校で生徒数が減ってきている所があり、新たに建設しても
今後児童数は減少するから建てないほうがという事が理由ならば
何のために校区指定があるのかと思います。
その土地で育った子供たちは大きくなり、その結果児童数が減少するのはごく当たり前のことで
そんなことを言っていたら、どこの場所にも小学校は建たないことになります。
ただ増設して今の子供たちだけ我慢してもらえばいいという感じなのでしょうか。
私は小学校のあるところに子育て世代が集まりその子供たちが大人になって
またその土地に帰ってきて子育てをする、というのが町のあり方ではないかと思っています。
小学校はただ通わなければならないから、通わせていればいいというのではないと思います。
色々な行事や上級生との交流、遊びの時間、特別教室での授業や他校との交流などにおいて
人数や設備・空間、時間や対応、安全上のキャパシティもゆうに超えており
弊害が出てくるのは目に見えて明らかです。
市長は「子供の落ち着きに影響するのでは?」という質問についは
「保健の先生を2名に増やしたから大丈夫」といっていることからしても
やはり子供のことを全く考えていないと感じられました。
保健の先生が2名になったところで、1000人近い児童を全てケア出来るのでしょうか?
実際に学校の様子を見に行ったりしているのかもはなはだ疑問です。
子供の成長において重要な時期であるのに
3km近くも歩かせて行った先がそんな環境の学校では
通学時の安全についても、また教育の環境という点でもいいとは言えません。
黄金地区に家を建てたものの借金が増えてでも家を売って
子育てに「優しくない町」を出て千歳に引っ越そうかと真剣に考えています。
やはりこの問題が自分の身に降りかかってこないと考えられないのだと思います。
温かいご飯の提供や読書をさせるのも必要だと思いますが
それをしていれば子供がきちんと育つみたいな凝り固まった考え方ではなく
義務教育を受ける子供たちの学習・生活環境を整備をしなければならないということを
想像力を持って市長や教育委員会など、新設を反対している方々には考えていただきたい。
そして、広報えにわ5月号には、なごやかに入学式が行われたかのような写真が載っていましたが
体育館はかなりぎゅうぎゅう詰めであったと新聞には載っていました。
必要な情報や都合の悪いことは全く記事にしないというのは情報操作ですか?
こんなに真剣に思い悩んでいる住民がいるのに
大事な案件には触れず、広報には非常に能天気なコラムを書いているというのは
次の選挙への紙面の私的流用ではないですか?
とにかく、市民に「いいこと」も「わるいこと」も全て情報として伝えてほしい。
市長はただブックスタートや何かで子供を研究対象にし
ただ何も考えずお金のかかる事業をやめて自分の考えだけを押し進め
名前を売りたいだけなのではないかと思ってしまいます。
子供の教育環境が悪化しているのに「財政難だから」の一言で片付けられるのはおかしい。

私たちは市にも国にも税金をじゅうぶん払っており
本当はお金の出所なんて市であろうと国であろうとどちらでもいいのに
なぜ、「国から補助金をいただいている」みたいにへりくだり
中央省庁やその他諸々あらゆるところで税金の無駄遣いが指摘されているのも関わらず
補助金が減額されたからといってそのあおりを子供達が受けなければならないのか。
そして、そのあおりを防ぎなんとかしてやろうというのではなく
ただあっさり「お金が無いから断念します」と言ってしまう市長に私は憤りを覚えるし
「子供のことを大事にしている」とアピールしている事に怒りを感じるし
自分の「面目」のために子供のことを二の次にするあたりは
まさに今の「日本のお役人」そのものだと感じています。
市長の仕事は自分の「欲」が満たされ、ただ財政がやりくりができていればいいのでしょうか。
市長や教育委員会は小学校新設の陳情書が提出されても
増設予定を変更する気がまったくないように見えますが
どうにか小学校の新設を実現させてほしいのです。
そして市民にわかりやすい形で今ある状況をきちんと知らされるようにしてほしいと思っています。

TITLE:
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近日中にご返答を含めた記事を書きますので、少しお時間をいただけますよう
お願いいたします。

TITLE: 第2和光小新設について
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私は黄金地区に小学校の建設が予定されていることが決め手となり、他の市から恵庭の黄金地区に移り住みました。そして先日、小学校の新設が断念されたとの情報を新聞記事で知りました。
騙されて土地を購入されられた気持ちです。住民に何の説明もなく、事後報告で終わったことに怒りを感じています。
市長は計画を考え直す必要があります。ここまでは私的な思いがつまっています。

さて、小学校の新設を断念した理由は、「市の財政難」と伺っておりますが、財政難の割には恵み野駅周辺の開発に、市は巨額の予算を注ぎ込む計画があるようですね。なぜ、福祉や教育という市の最も大切な役割を削ってまで、ショッピングセンターや宅地の開発を今やらなければならないのでしょうか。美味い汁でもあるのでしょうか?
市民のお財布の中にあるお金の量は決まってますので、新しいショッピングセンターに一時的に客が集まったとしても、
既存のお店の客が奪われるだけです。そして、しばらくすれば競争に負けた空き店舗が町に増えるのが目に見えています。市外には魅力的なお店が沢山ありますので、相当魅力ある店舗を誘致しないと、市外からの買い物客はまず期待できないと考えます。
財政難を引き起こした原因調査も必要です。「税収が減った」だけでは説明不足です。どのようなメカニズムで税収が減ったかを深く掘り下げて、反省点を整理して次につなげる必要があります。

元気のある町づくりには、子供が欠かせません。子育て世代が住みやすい街にすれば、子供は自然に増えるでしょう。
そして親たちの雇用が豊富であることが必要です。
目先の適当な開発に税金を浪費するのではなく、多くの市民が働ける企業や工場の誘致活動に力を注ぐなどの将来を考えることが重要です。この町も、いつまでも自衛隊におんぶに抱っこという訳にはいかないと思いますので。
このまま恵庭市が将来を見据えた街づくりを放棄すれば、若い世帯は益々住みずらい町だと感じるでしょう。
そして、他の魅力ある町へ転出し、結果として町の高齢化が進むでしょう。

かしわのさん、黄金地区の小学校の建設が恵庭市の方向を変えるターニングポイントとなるはずです。
ぜひ市議会で真剣に討議してください。このままでは恵庭市に希望が持てません。

TITLE: ぽとふさんへ
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説明が足りなかった部分があるかもしれません。

一点だけ追記です。
入学式が非常にきゅうくつだったという新聞報道ですが、私はあの見出しにも
問題がないわけではないと考えています。児童数は確かに864名おりますが、
今年の新入生は163人です。
卒業式では3学年(4〜6年)入る体育館に2学年(1〜2年)しか入っていません。

父母の方たちがきゅうくつそうだったのは確かですが、あれをもって、学校が狭いという
のは多少の主観が入っているように思います。

しかし、市長には自治体のトップとして国や省庁と正面から戦ってほしい、という
ことは私も同感です。

TITLE: 市民さんへ
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> 騙されて土地を購入されられた気持ちです。住民に何の説明もなく、事後報告で終わったことに怒りを感じています。

平成17年に、今の小学校予定地を取得したときには、「その時点では、新設分離の補助基準には満たない」
にも関わらず、市は「小学校用地」として取得しました。
このことが、多くの方に「小学校が建つ」という誤解を与え、行政への信頼を損ねる結果を招いています。

建つ見込みがなかったのであれば、その時点ではっきりそれを明示すべきでした。
しかし、その「小学校用地」によって、急速に児童数は増え、今に至ります。


恵み野西口開発については、これまで、土地表価額増と商業施設建設による固定資産税など
税収増が見込めることを理由としておりました。

しかし、公開プレゼンテーションや、その後の議論を見ても、その実現可能性は乏しいものです。
税収減のもっとも大きな要因は国の三位一体改革による地方交付税の削減です。

その限られた財源の中で、どの事業を優先していくのか。
市長は判断をしていますが、議会が、議員がどういう優先順位をつけているのかは見えません。
非常に難しいことですが、議会の総意として優先順位づけを行うことで、行政側に対して
強い影響を与えることは可能だと私は思うのですが・・・。

それはできない、とおっしゃる方もいます。

TITLE:
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>非常に難しいことですが、議会の総意として優先順位づけを行うことで、行政側に対して
>強い影響を与えることは可能だと私は思うのですが・・・。
コメントありがとうございました。
ぜひ影響をあたえるよう、精一杯活動を継続していただきたいです。

>それはできない、とおっしゃる方もいます。
行政に影響を与えることができない、もしくは最初からあきらめているのであれば、議会(議員)の存在意義は薄れますね。
せっかく市民が投票所に足を運んで議員さんを選出したのに・・・

TITLE:
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早速のコメントありがとうございました。

「入学式の新聞報道について」
確かに、新聞報道が客観的であったかどうか
私には判断できません。
(実際にきゅうくつであったか自分の目で見ていないので)
しかし、卒業式より人数が少ない入学式で
きゅうくつに感じると思った人がいたならば
現段階ですでに体育館が「手狭」なのではないでしょうか?

市長が参加した経営戦略会議の議事録を
読んでいて思ったのですが
本当に市長は委員の方々から
意見を聞く気があったのでしょうか?
この議事録を見る限り
小学校新設の方向で進んでいた様に思うのですが・・・
この会議のどの意見を汲み取って
市長は新設を断念しようと思ったのでしょうか?

http://www.city.eniwa.hokkaido.jp/mmb/soumu/koukai/gijiroku_new/gijiroku.html

TITLE:
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>市民さん

影響を与えるためには、単に過半数で議決ということだけではなく、
より多くの議員の合意が求められます。
困難だというのは、公開の場で議論をし、合意形成を行うという作業です。

オープンでは個人の意見を述べられない。
重要事項は、会派内の会議で決定し、議決では党議拘束がかかる。
選ばれているのは議員個人であって、会派ではないはず、国会ではないのです。

このあたりが私が何としても議会改革を進めたいと思う理由です。

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>ぽとふさん

おっしゃる通りです。
この議事録を読むと、教育委員会が新しい小学校を建てたいという気持ちを強く
持っていたことが読み取れます。

ひとつとても難しいのは、市の負担分の中で最初に出すのは(頭金のようなもの)
一部なのですが、残りを借金します(起債)。
この借金を1年間に10億円の枠内に納めないといけない(指標が基準を越える)
のですが、学校建設の場合、最終年次にまとめて8億円くらいの借金をしなくては
いけません。

このやりくりを、他の事業とともに行う必要があります。
お答えになっていないかもしれませんが。

TITLE:
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ひとつ質問なのですが
「小学校増築の補助金申請」を行ったとありましたが
「小学校新設の補助金申請」を行うということは
考えられなかったのでしょうか?

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昨年までは「新設での補助申請」を検討していたはずです。

しかし、2/5の時点で出した結論は、「分離新設は行わず、増築で対応」です。
その実現のために増築の補助申請を行いました。

このあたりも、個別の補助金という仕組みがあるから問題となります。
そもそも地方が自由に使えるお金であれば、もっとやりくりができるはずです。
分権改革のためには、補助金制度の見直しは不可欠です。

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補助金については
いち早く道州制に移行して
自治体が税金を無駄なく自由に使えるように
なっていただきたいです。
霞ヶ関にいて
どうして地域の現状がわかるのでしょう?

本日、和光小増築に関する地域説明会の案内が
配布されていました。
増築に関するメリットばかり記載され
デメリットに関しては書かれていないですね。
平日の18:30に参加できる父兄は
いったいどれくらいいるのでしょう?
ちなみに私は仕事なので
説明会には間に合いそうにありません。
こういう時でなければ
直接意見を聞くことが出来ないので
ぜひとも参加したかったのですが・・・

私が懸念しているのは
和光小に通う子供たちが
他校の児童と同じ教育が受けられるのかどうかという点です。
学級や児童の適正数が大幅に超えている現状で
これからますます児童数が増えていくのに
増築するだけで対応できるものなのでしょうか?
理科室での実験や音楽室での授業が
満足に行えるのでしょか?
狭くなってしまうグラウンドで運動会が行えるのでしょうか?
ぎゅうぎゅう詰めの体育館で学芸会が行えるのでしょうか?
だからといって
「じゃあ小学校の建築費はどこから捻出するの?」と
聞かれても私には答えられません。
しかし
そこを何とか考えてうまくやるのが
「行政のプロ」だと思うのですが・・・

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>ぽとふさん

開催日時の設定は容易ではありません。たとえ日曜日に開催しても、
すべての方が休みというわけではありませんし、複数回開催するという
ことになると、1回目に出席した方は2回目に出た意見を聞くことができません。

>他校の児童と同じ教育が受けられるのかどうかという点です。

>理科室での実験や音楽室での授業が満足に行えるのでしょか?
>狭くなってしまうグラウンドで運動会が行えるのでしょうか?
>ぎゅうぎゅう詰めの体育館で学芸会が行えるのでしょうか?

すべて同じとはなりません。
ただ、私は「狭いから」建てるというのが一番の理由ではないと思っています。

私が小学校のころは体育館で学芸会ではなく、市民会館でした。
学校のグラウンド以外で運動会という可能性がないわけではありませんし、
市内では人数対比でグラウンドがもっと狭いところもあります。

行政というよりは、そこには市長や議会のリーダーシップが求められるのだと
思います。

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私は、児童数が増えて
グラウンドも体育館も色々と狭くなるから
新しくて広い校舎を新築してくださいと
言っている訳ではありません。

1000人を超えてしまうであろう児童全てに
先生達の目が行き届くのか
ということを問題だと言っているのです。
「児童の適正数が720人」という
指標があるのにも関わらずですよ。

そもそも
子供の義務教育に関することなのに
小学校新築を「事業」というくくりで
地域開発等と同じ扱いで考えていいものなのでしょうか?

「子育てのしやすい町」というマニフェストを
掲げて当選した市長なら
わかってくれていると思っていたのですが
とても残念でなりません。

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あなたのこの問題に対する腹構えが問われます。評論家ではないのです。「和光よりも狭い運動場がある、だから、和光のそれを一概に狭いとするのは主観にすぎない」旨の「評論」は、客観的な事実としては、ご指摘の通りなのでしょう。しかし、だからといって、柏野さん、あなたがそれをもって何だとおっしゃいたいのか、よくよくわかりませんね、正直。経過はどうあれ、あなた自身、新設が望ましいと考えている、そして、あなたはバッジをつけている政治家なのです。議論のための議論は、評論家がすべきことです。信念と気概をもち、多少は実利的に動き回ることも必要だと思います。あなたが指摘した「客観的事実」は、些事に過ぎないことを知るべきでしょう。こうした厳しい指摘も、あなたを支持するが故の苦言だと考えて頂ければ幸いです。

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《ぽとふ》氏が、小学校の適正規模について言及していることに関連して、小学校に通う子どもと教育を受ける権利、という観点から、和光小学校の「増設」の問題性について、意見をします。子どもの教育を語る場合、ましてや政治との関連において語る場合、憲法が何を求めているのか、について、各自がしっかりとした理論的な根拠に基づいて検討しておくことは、大前提だと思います。
さて、申し上げるまでもなく、日本国憲法は、その26条において、「教育を受ける権利」を保障しています。この教育を受ける権利の性格をどのように考えるか、については、憲法学上、いくつかの代表的な学説があるわけですが、現在の通説的な見解としては、これを学習権の保障規定だと解する立場だと言ってよく、この考え方は、最高裁におていも採用されるに至っています(最大判1976.5.21)。
ところで、憲法26条1項は、「その能力に応じて、ひとしく」教育を受ける権利を保障する、と定めており、いわぱ「教育における平等」を保障している、と考えられているわけですが、では、ここに教育における「平等」ということが何を意味するのか、が、問われなければなりません。すなわち、それが形式的平等(機会の平等)を保障のみなのか
、あるいは、実質的平等までをも保障しているのか。もしも実質的平等までをも保障しているとするならば、さて、その実質的平等の実質とは何を意味するのか。すなわち、条件の平等までなのか、それとも結果の平等をも保障する、という意味での実質的平等なのか…。教育を受ける権利が、「その能力に応じて、ひとしく」という場合に何の平等を保障しているのかを知るためには、教育という営みの性質、それを踏まえた上で、平等の意味を巡る法哲学上豊穣な研究成果を捉まえることで、はじめてその意味が明らかになるわけです。
正確な論証をするには、多くのスペースが必要ですから、ここでは避けますが、結論を言えば、対象とする教育が初等であればあるほど、教育における平等というのは、「結果の平等」をも保障することが、初等教育の性質上求められることになります。もしも教育における平等を単なる形式的平等の保障までだとするならば、その先に開かれているはずの、当該子どもの将来の可能性は、大きく刈り込まれてしまう、ということになります。初等教育においては、「結果の平等」の保障が強く要請され、したがって、それを実現するには、条理上、学校の規模あるいは一人の教師が担当する子どもの数は、できるかぎり少ないことが求められる、ということになります。なぜそのように考えられるのか。以前、私が、私の所属する大学の研究紀要で公表した拙稿の一部分を、やや長いですが、以下、転載しておきます。

===================
(前略)

(3)「教育を受ける権利」と教育における公正な平等

これまで、教育における平等とは何か、ということについて、主に教育機会の平等をいかに保障するか、ということに軸足をおいて議論が展開されてきた(69)。しかし、大切なのは、教育における平等を、単なる教育機会の平等と捉えて、「教育機会の平等の達成によって、教育結果の不平等を隠蔽すること」があってはならず、憲法26条1項の「その能力に応じて、ひとしく」もそのような観点から解釈されなければならない、ということである。
そこで、以下では、第一に、前述した憲法26条をめぐるふたつの学説で、教育における平等、というものを、どのように考えてきたのか、第二に、教育における公正な平等とはいかにあるべきか、という観点から、教育における機会の平等と結果の平等との関係をどのように考えるべきなのか、について、若干の問題の整理をしてみたい。

①学説―「その能力に応じて、ひとしく」の捉え方―
 学説において、教育における平等をどう考えてきたのかは、結局のところ、憲法26条1項の定める「その能力に応じて、ひとしく」をいかに解してきたのか、にかかわる。
 先にも述べたように、従来の通説である経済的権利説は、憲法26条の「教育を受ける権利」を、教育の機会均等を実現するための経済的な配慮を国家に対して要求する権利と解していた。そこでは、憲法26条1項の「その能力応じて、ひとしく」も、「教育を受けるに必要な能力」があるにもかかわらず、経済的な理由により修学が困難な子ども対し、その教育機会の平等を実現するために、経済的な援助を講ずることを国に義務づけたものであると解され、「教育を受けるに必要な能力(学力・健康など)によって差別されるのは当然である」(70)とされていた。また、経済的権利説では、憲法26条にいう「教育」とは、学校教育以外の教育である「社会教育をも含む」とされているけれども、「主として、学校教育を意味する」(71)ものとされている。
義務教育段階にある子どもにとっては、(是非は措くとして)主たる教育は、現状としても、「学校教育」となっている。こうしたことからすると、子どもにとって、自らの「教育を受ける権利」が十全に保障されるためには、今のところ、「学校」に行くことのできる「能力」が必要となりそうである。経済的権利説で言うところの「教育を受けるに必要な能力(学力・健康など)」に、「学校に行くことのできる能力」が含まれるとすれば、学校に行くことができない不登校の子どもは、経済的権利説で言われるところの「教育を受けるに必要な能力」がない者とされ、結果として「学校教育」を受けられないという状況も、当然許されることになりそうである。
しかし、仮に、「教育を受けるに必要な能力」に「学校に行くことのできる能力」が含まれない、と考えることができるとすれば、次のように考えることもできるのではないか、と思う。すなわち、「学校に行くことのできる能力」を欠く不登校の子どもが、「学校教育」を受けられないのは、経済的権利説の言う「教育を受けるに必要な能力」以外の差別にあたり、経済的な事由に対してのみ「奨学の方法」を講じる現在の制度は不十分であり、「学校に行くことのできる能力」を欠く子どもに対しても、「学校教育」を受けられるような、何らかの広く厚い具体的な保障が用意されなければならない、と。
 次に、近時の通説である学習権説である。これについても先に述べたが、「教育を受ける権利」を単に経済的な側面からのみ理解しようとした経済的権利説に対する批判として主張されたものであった。学習権説よれば、憲法26条1項の「その能力に応じて、ひとしく」は、「教育を受けるに必要な能力」以外の事由による差別は許されないのはもとより、子どもの心身の発達の仕方に応じて、なるべく能力発達ができるような「教育」を保障するものと解すのである(72)。したがって、学習権説からは、不登校の子どもにも、その成長発達の仕方に応じた、できるだけ能力発達ができるような「教育」が保障されることになる。
しかし、学習権説のいう「すべての子どもが能力発達のしかたに応じてなるべく能力発達ができるような教育」が、12万3千人いる不登校の子どもに、どのような教育を保障しようと考えているのか、明確ではない。登校できる子どもとできない子どもをそれぞれの必要に応じて分離して教育するのか、しないのか。仮に、それぞれの必要に応ずる、ということで、それぞれ別学にする、というのであれば、それは、学校以外の学習の場が第二次的な選択肢となり下げられている現状の下で、「人格の完成」を目的とした「教育」、それを受ける権利を保障した憲法26条1項との関係で問題がないのかどうか。さらには、教育における平等をどう考えるのか(機会の平等から結果の平等までの間のどこにその適正で公正な平等を求めていくのか)。つまりは、そこで言われる「『すべての子どもが能力発達のしかたに応じてなるべく能力発達ができるような教育』というのが一体どういう教育をイメージしているのか、この先に存する具体的な姿が制度論としてうまく結びついて来ない」(73)という難点がある。
以上のような議論の中で、憲法26条1項の「その能力に応じて、ひとしく」を、「『教育機会の均等』が、教育機会の平等の達成によって、結果の不平等を放置・隠蔽することのないような捉え方をすべき」(74)であると説く中川は、背反しがちな機会の平等と結果の平等のいずれをも両立させる観念として、個人の能力それ自体を等しく継続的に保障しようとする「公正なアクセスの平等」の、教育における適応可能性を探る(75)。
 この「公正なアクセスの平等」は、「義務教育段階において、すべての子どもに対して平等に開かれている(はずの)教育の場」に、不登校の子どもも「公正にアクセスして、その能力を等しく継続的に保障するように配慮することを求めるものであり、その場へのアクセスが毀損されているときには、公正の観点からその回復を図ろうとするもの」(76)である。

②教育機会の平等保障と教育結果の平等保障―WalzerとHoweの議論から―
教育というサービスは、「才能(talent)」によって配分されることを主張する、「複合的平等論」を展開したウォルツァーは、非高等教育機関(とりわけ、初等教育)においては、教育機会の平等保障のみならず、教育結果の平等が目指されているという(77)。ウォルツァーによれば、初等教育においては、「子供に読むことを教えることは、(たとえば)文学的批評を教えるひとはそうではないとしても、結局は平等の営み」であり、「読書指導をする教師の目標は平等の機会を提供することではなくて、平等の成果〔=結果〕に到達することである」(78)という。
なるほど、学校や教師が、そうした教育結果の平等をすべての子どもに対し平等に保障するよう取り組まず、ただ「読み書きを教える教室の扉は、この学校に入学してきたあなたたちのすべてに開かれていますよ、どうぞご自由に入室してください、しかし、文字を読めるようになるかどうかはわかりません」という教育機会の平等のみを保障しただけでは、およそ子どもの「教育を受ける権利」は満足に保障はされない。
こうした契機を含む教育機会の(機械的?)平等論は、次のような問題を生じさせる。すなわち、学校あるいは教室が、ある特定の子どもにとって、非常に強い精神的あるいは肉体的な緊張や葛藤を生じさせるような環境で、当該子どもが学校あるいは教室に行けない場合であったとしても、教育機会の平等論によれば、教育の扉がどの子どもにも閉ざされてさえいなければよく、学校は、憲法上、何らの違反に問われることはない、ということである(79)。
しかし、子どもを取り巻く現実社会の状況は、「一定の〔教育〕結果が個人の教育歴のある段階までに達成されていないなら、その後にその人に開かれるはずの教育の機会という枝は、大きく刈り込まれてしまう」(80)のであり、このことを考えれば、「教育の機会と結果とは分かつことができ」(81)ず、「真の教育機会、つまり求めるに値する教育機会をもつためには、あらかじめ何らかの結果が得られていなければならない」(82)と考えることに、合理的な理由が認められてよい(83)。
こうして、憲法26条1項によって、教育機会の平等が保障されているということは、それと同時に、ある種の教育結果の平等も保障されていると解しなければ、およそ同条項が教育機会の平等を保障したとは言い得ない、と言い得る余地がある。憲法上、子どもの「教育を受ける権利」に対応した義務を負う学校には、原則として、子どもの以後の人生に開かれている(はずの)教育機会の平等を意味あるものとするために、子どもに対し、教育結果が平等に配分されるよう保障することが求められている(憲法26条1項、教基法1条、同法3条1項)、と考えられるのである。

③一応の小括―教育における公正な平等と多元的な平等原理―
憲法26条1項は、「すべて国民は…その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利」を保障している。「その能力に応じて、ひとしく」は、「憲法14条の平等原則が教育の領域に働くこと」(84)、あるいは、憲法「14条の平等原則が教育面でとくに強調されるべきこと」(85)を意味している、と解されている。それでは、憲法14条1項にいう「平等」とは何を意味するのか。憲法14条1項は、「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と定める。「平等」の概念は多義的であり、これが平等である、とはなかなか確定しにくい。一般に、憲法14条1項では、原則は、形式的平等保障であり、「実質的平等の保障は、形式的平等を実際に確保するための基盤の形成に寄与する限りで認められる」(86)ものであると解されている。ただし、近時、事柄によっては、実質的平等(条件の平等)を確保しただけでは、真の平等とは言えない場合があり、そうした場合においては、さらに徹底した実質的平等(結果の平等)を求めようという議論もある(例えば、アファーマティブ・アクション)。この点につき、通説は、憲法は結果の平等を容認することはあっても、積極的に要請しているとまでは言えず(87)、実質的平等の実現は、「なにが実質的平等と呼ばれるにふさわしいかという問題も含めて、第一義的には社会権条項に託された課題である」(88)と解している。
以上から、憲法26条1項は、形式的平等の保障を基本にしながらも、「能力に応じて、ひとしく」という文言からも明らかなように、何某かの実質的平等をも保障する趣旨に出たものであることは、周知のごとく、明らかである。問題は、社会権規定である「教育を受ける権利」が保障している実質的平等というものが、一体何を意味するのか(条件の平等までなのか、結果の平等をも含むのか等々)、である。これは、「教育」という事柄の性質に即して考える必要がある。
「教育」における平等を考えるにあたっては、「教育においては機会の平等保障が原則であり、結果の平等や条件の平等は例外的に適用される」というような、「教育」という営みのもつ多様な側面ないし性質を度外視した、一元的な平等論の適用を論ずるのではなく、「教育」という営みのもつ多様な側面ないし性質を大切にし、どの側面ないし性質についての平等を考えようとしているのか、をまずは明確にしなければならないだろう。その上で、「教育」のある側面ないし性質を問題とした場合に、そこにはどのような平等論を妥当させることが、子どもの「教育を受ける権利」をよりよく保障することができるのか、を考えることが肝要である。したがって、教育における平等は、「教育」の多様な側面ないし性質に応じて、あらゆる平等論が多元的に適用されることによって達成されることになる。例えば、次のように、である(89)。
義務教育段階の「教育」を受けることそれ自体は、(学校でそれを受けるのかどうかはともかくとしても)もれなく保障されなければならない性質のものである。したがって、もしこれが保障されていないような状況があれば、義務教育が受けられるように是正されることが要請されるだろう。これは、結果の平等論が妥当する側面と言えるだろう。また、子どもによってテストの結果に異なりが生じるのは仕方がないことであり、これに結果の平等論の観点から是正を求めることは妥当ではない。これは、言うまでもなく、基本的には、それぞれの子どもの理解力の差や努力の差から生じるものである。しかし、理解力の差に応じた事前の措置(例えば、補習授業)を講じて、理解力の差を少しでも埋め合わせて、できるだけ同じ到達度でテストが受けられるよう配慮することは、「教育」においては必要なことであり、これは、過程の平等論あるいは条件の平等論が妥当する側面だと言えるだろう。よく言われるように、学校においては、(是非はさておき)何か一つのことを仲間と一緒に作り上げ、その達成感や喜びを、全員で共有することが大切だとされていることが多い。これは、場合によっては、満足感とか幸福感といった福利の平等論が妥当する側面なのかもしれない。無論、こうした「教育」の営みに参加することは、すべての子どもに開かれている必要がある。これは、機会の平等論が妥当する側面であろう。そして、「人格の完成」を目的として行われる「教育」を受ける権利を保障された子どもには、そうした「教育」にとって必須の「関係性の豊かな環境」が、憲法26条によって「教育を受ける権利」を保障されていることの当然の帰結ないし前提として、もれなく保障されなければならない(90)。ここには、結果の平等論が妥当する。
こうして、子どもの「教育を受ける権利」に対応した義務を負う学校は、「教育」における平等を、「教育」のもつ多様な側面ないし性質に応じて、かつ、様々な違いをもつ子どもの存在に応じて、多様な平等論を適用して、教育における平等の保障の実現に取り組むことが求められているのである。

【註】

(前略)

(69) 中川明「憲法26条にいう『能力に応じて』と『普通教育義務』とは?」(講演録)障害児を普通学校へ・全国連絡会ブックレット第16号(1999年)11頁。
(70) 宮澤俊義(芦部信喜補訂)『全訂日本国憲法』日本評論社1978年274頁。傍点は引用者。
(71) 宮澤・前掲書註(70)274頁。傍点は引用者。
(72) 兼子仁『教育法(新版)』有斐閣1978年231頁。
(73) 中川・前掲講演録註(69)9頁。
(74) 中川明「障害のある子どもの教育を受ける権利について―インクルーシブ教育の憲法論的考察―」 高見勝利ほか編『日本国憲法解釈の再検討』有斐閣2004年53頁。
(75) 中川・前掲論文註(74)53頁。なお、「公正なアクセスの平等」については、長谷川晃「リベラルな平等についての覚書」北大法学論集43巻5号414頁以下、同『公正の法哲学』信山社 2001年201頁以下。
(76) 中川・前掲論文(74)56頁。なお、この部分は、「障害のある子ども」の文脈で述べられているものであることを申し添えなければならないが、中川・前掲論文は、本稿の問題関心である不登校の子どもの教育を受ける権利を考えるにあたっても多くの示唆と影響を受けている。
(77) マイケル・ウォルツァー(山口晃訳)『正義の領分』而立書房1999年308頁。
(78) ウォルツァー・前掲書註(77)312頁。傍点と〔 〕は引用者。
(79) 菊地健至「学校を選べるようにすることを支えるものは何か―教育と公共性―」安彦一恵ほか編『公共性の哲学を学ぶ人のために』世界思想社2004年124頁以下は、「あらゆる子どもが公共的な教育を受けられるように整備すること、学校において特定の子どもに偏って緊張や葛藤が強いられるような事態に適切に対処すること、これらは小中学校教育において求められることであり、『いじめ』や『学習上の問題』についてはそうした配慮がある程度認められる」のであり、「それならば、『文化的なことがら』をそれらと区別し、これには配慮しないことを正当化するには、どのような理由があるのだろうか」と疑問を呈す。なお、ここに言われる「文化的ことがら」については、同書122頁を参照されたい。
(80) ケネス・ハウ(大桃敏行・中村雅子・後藤武俊訳)『教育の平等と正義』東信堂2004年33頁。〔 〕内は引用者。
(81) ハウ・前掲書註(80)7頁。また、ハウは、「教育機会の平等を教育結果の平等と同一視することには根本的な矛盾があるとする見解に異議を唱える」(37頁)という立場を採ることが注目される。
(82) ハウ・前掲書註(80)7頁。
(83) なお、補足までに述べておけば、日本においては、後期中等教育の進学率が全国平均で97.5%(2004年度学校基本調査速報値)であり、大学への進学はもとより、各種学校に進む場合でさえ、「高卒」の学歴が要求されている。したがって、初等教育に限定したウォルツァーの議論の射程は、後期中等教育が、事実上、必須のものとなっている日本において、義務教育である前期中等教育はもとより、後期中等教育にまでは及ぶと考えてよいのではないか、と思う。
(84) 野中ほか・前掲書註(48)494頁〔野中執筆部分〕。
(85) 伊藤正己『憲法(第3版)』弘文堂1995年386頁。
(86) 佐藤幸治『憲法(第3版)』青林書院1995年467頁、辻村みよ子『憲法(第2版)』日本評論社2004年202頁。同旨、野中前掲書註(48)274頁〔野中執筆部分〕など。
(87) 渋谷秀樹ほか『憲法1人権(第2版)』有斐閣2004年308頁〜309頁〔赤坂正浩執筆部分〕。
(88) 野中ほか・前掲書註(48)274頁〔野中執筆部分〕。
(89) 以下記述は、長谷川晃『公正の法哲学』信山社2001年112頁〜122頁に示唆を受けている。
(90) こうした要求を、社会権規定である憲法26条1項を根拠として、裁判によって請求することができるのか、については、別途検討を要する。生活保護法に基づいてなされた、厚生大臣(当時)の認定判断が、憲法25条1項の定める「健康で文化的な最低限度の生活」を下回るものであると違法なものであるとして争われた、いわゆる「朝日訴訟」で、最高裁は、生存権の具体的権利性を否定した、いわゆる「食糧管理法違反事件」の判例(最大判1948年9月29日)を踏襲するとともに、厚生労働大臣の認定判断を自由裁量に委ねられるものと判示して(最大判1967年5月24日)、学説からは、「生存権の権利性を大きく後退させた」との批判がなされているが、しかし「憲法25条と生活保護法との結びつきを肯定しており、憲法25条が少なくとも生活保護法の解釈を通して裁判規範としての効力を有することは否定されていないことに注意しなければならない」(中村睦男『憲法30講(新版)』青林書院1999年158頁)、ということのみを述べておくことにする。

(後略)

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こうした学説で展開された豊穣な成果をも踏まえるとするならば、「金がない(でも何十億の金を要する開発事業は進めるわけだが)」と言い、安直な増設を進める市当局の姿勢には首肯することはできないわけです。もしもかかる方針を推し進めようとするならば、「増設反対」を表明する地域住民に対し、以上の学説の研究成果に対して、理論的な反論を合わせた説明をする責任が、市当局には生ずるでしょう。増設に賛成するにしろ、反対するにしろ、以上に述べたような点につき、しっかり深めた上で、行動することが、政治をする側、政治をさせる側双方の「責任」だろうと思われます。さて、柏野さん、あなたは、どう考えますか? しっかりあなた自身の軸足というものを確立してください。

TITLE: 問題の本質をしっかり見極めよ
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柏野さん→《ぽとふ》氏への応答で・・・

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ただ、私は「狭いから」建てるというのが一番の理由ではないと思っています。
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こうした応答は、《ぽとふ》氏もすぐに再応答しているしているように(つまり、物理的に狭い、ということを問題の本質だとはみていない、というぽとふ氏の応答)、問いかけを十分理解していない、貧しい応答だと酷評しなければなりません。和光の問題に対する意見を、こうした認識で捉えてしまうことの問題性を、柏野さんは重く自覚すべきだと、私は思います。なぜならば、《ぽとふ》氏の発言を物理的な広狭の問題だと誤解するということは、見方ないし表現を変えれば、「古いから立て直せ」と同次元の問題として理解されていることとほぼ同義となるからです。文章でのやりとりとはいえ、以前も指摘した柏野さんご自身の政治家としての有りように全く無関係ではないと、私は思います(またまた苦言で恐縮)。

柏野さんは、次のように書きました。

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私が小学校のころは体育館で学芸会ではなく、市民会館でした。
学校のグラウンド以外で運動会という可能性がないわけではありませんし、
市内では人数対比でグラウンドがもっと狭いところもあります。
================

だ・か・ら、どうなんだ、と? 人口密集地でもない、片田舎の恵庭で、音楽室のない小学校は、行政の条件整備義務を十分に果たしている、と言い得ないでしょう。あなたが経験したこと、すなわち、「私が小学校のころは体育館で学芸会ではなく、市民会館でした」ということを基準として、あるいは、根拠として、だから、和光小の現状はそう酷くはない、と結論したいのでしょうか? 《仮に》そうだとしても、あなたの経験をもってして、だから和光は増築でいいのだ、という結論は、必然的には出てこないでしょう。事実レベルの有りよう、しかも、特定の個別具体のそれを、規範レベルの適否の議論の行く末に何の論理的変換作業を経ずして持ち込むのは、倒錯した議論だと指摘せざるを得ません。議論の作法としてはいただけません。

また、柏野さんは、「学校のグラウンド以外で運動会という可能性がないわけではありません」ともいいますが、小学校設置基準8条2項では、「校舎及び運動場は、同一の敷地内又は隣接する位置に設けるものとする」と定め、「ただし、地域の実態その他により特別の事情があり、かつ、教育上及び安全上支障がない場合は、その他の適当な位置にこれを設けることができる」としているのです。だすから、但し書きに定める要件を満たしているものなのかどうか、が、しっかり問われるべきであり、それが満たされないような場合には、柏野さんがご経験された事態も、規範論としては、許容しがたいことになるわけです。体育館もそうです。市民会館で学芸会をやった、とご経験を述べられていますが(現実レベルあるいは法社会学的認識レベル)、規範論として、だから、それでよい、ということにはならないわけです。それ故に、私は、「柏野さん、だから、何だといいたいのか?」と執拗に問うているわけです。柏野さんの、個別具体のご経験が、どのような背景だったのかは、もとより存じ上げませんが、本来は、前記基準8条2項の前段部分が原則なのであって、但し書きはあくまで例外でなければなりません。これが逆転することは妥当ではないのはもとより、経験論的な認識を素朴な根拠として、これが逆転することは、いっそう許容されるものてせはないことは、もはや指摘するまでもありません。これを達成するよう努力する、というのが、同基準なのです。原則が実現できない場合には、努力をしたのかどうか、したとすれば、どのような努力なのか、それは努力いえるのかどうか、努力の仕方として、ほかに代替可能な選択肢がなかったのかどうか、こうした諸点につき、政治的なレベルでの挙証責任を果たしてはじめて、(柏野さんがご経験された事態をも含めて)教育行政の条件整備義務違反の誹りを免れ得ると思われます。

スタンスを明確にし、気概を持って、突き進む。若手と呼ばれる政治家にまま感じられることですが、この点が、不甲斐ない、と思うのは、あまりに柏野さんに酷でしょうか(苦笑)。

TITLE:
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> リベラリストさん

> ただ、私は「狭いから」建てるというのが一番の理由ではないと思っています。

回答になっていないということですが、
物理的に狭いということだけを指しているのではなく、物理的に狭いこと
イコール教育にも問題が発生するということを含めて回答したつもりです。

> 私が小学校のころは体育館で学芸会ではなく、市民会館でした。
> 学校のグラウンド以外で運動会という可能性がないわけではありませんし、
> 市内では人数対比でグラウンドがもっと狭いところもあります。

物理的に狭いから、教育の平等が保てないということがイコールとはならない
ということを含めて、それが一番ではないと記述しました。

リベラリストさんのおっしゃる小学校設置基準に基づけば、第8条で運動場の
面積を、第9条で必ず備える教室を定めていますが、面積要件も備えるべき施設も
満たしていることになります。(それで十分だと言っているわけではありません)

--
憲法論のほうは、リベラリストさんも記述されておりますが、
憲法25条の判例などをみても、憲法が保障する権利は、それだけで具体的な権利となるわけではなく、
憲法の趣旨を実現するための立法とあわせて具体化するというのが通説的だと思います。

初等教育の性質上、結果の平等が求められるという主張には賛同いたしますが、
憲法26条1項と教育基本法だけをもって、その権利性が認められるかというと
疑問があります。

また、その実現のために、学校の規模が小さいことと一人の教師が担当する子どもの数はできる限り
少ないことが求められるということを、「条理上」導かれていますが、20人学級で1000人の学校と
40人学級で300人の学校では単純に比較できないように、AもBも実現できなければ実質的平等が
保たれないという性格のものではないと考えています。

--
憲法論とは別に、中島市長は
「子どもたちの問題こそ最重要の地域課題」ということを掲げていた方です。
和光小の問題を最優先に考えることは市民との約束を果たすことだと思います。

私は、
1)初等教育ほど地域との結びつきを強く持つ必要があること
2)通学の安全性と適正な距離
3)学校の適正規模(児童数の増加に伴う教育環境の「悪化」)

そして、「地域コミュニティの核としての小学校」
という理由で黄金地区で小学校を新設することが望ましいと考えています。

TITLE:
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柏野さん、ご丁寧な回答、取り急ぎ、ありがとうございます。

古典的なプログラム規定説でもって、何らかの返答をされるのではないか、と察しておりましたが、想定内のご返答ということで、ある意味、「やっぱり、そうきたか」という残念な思いですね。生きた政治家である柏野さんと、憲法解釈論を展開してどうするのか、という素朴な疑問も当初よりないではないのですが、政治家たる者、古典的なプログラム規定説を持ち出し、「これが通説的」だと指摘するとともに、判例もそのような立場を採っている、と主張することでは、私は不十分だと思います。政治の世界は、通説的な見解や判例の立場にとらわれない議論を展開できるわけですからね(無論、憲法の条規に明確に反することは許されませんが)。あなたは、私に対して、通説をご丁寧に説明してくれましたが、大切なのはこれにどう疑問をもつか、疑問をもつセンスがあるか、だろうと思われます。プログラム規定の裁判規範性に関する議論は、あなたが学部の時代に学部のレベルで習われた当時よりも、多くの批判的な学説が展開されており、そうしたことをふまえなければ、「通説、判例はこうだから」ということを「解説」いただいただけでは、そもそも議論にはなり得ません。ここにあなたの「生」が感じられませんからね。まさに、私が、政治家たるあなたに欠如しているな、と感ずるもののある種のものが、ここに現れていると思います。また、私の議論は、そもそも裁判規範性そのものを直接的に意識した議論ではなく、あくまで運動のレベルで、憲法規範を足がかりとして何をいいうるのか、を論じたものであります。したがって、あなたが指摘する「権利性への疑問」というのは、的を得た指摘だとは言い得ません。

そして、あなたは、

「20人学級で1000人の学校と40人学級で300人の学校では単純に比較できないように、AもBも実現できなければ実質的平等が保たれないという性格のものではないと考えています」

と述べています。確かにその通りですね。ただし、抽象的な議論をして楽しんでいるのではありませんから、個別具体のレベルでお聞きしますが、和光小の増設後は、1000人を超えるマンモス校となっても、20人学級となるのですか、と。そうした見通しがあるのであれば、以上のような指摘も、「おう、そうか」と頷ける余地がありますが。そうした見通しなり方針が決定しているのでしょうか? もしそうした具体的な方針の決定がないまま、《素朴》に、あるいは、《単純》に、私の議論に応答すること《だけ》を視野に入れて、「20人学級で1000人の学校と40人学級で300人の学校では単純に比較でき」ず、したがって、「実質的平等が保たれないという性格のものではない」と書かれているのでしょうか? そうだとすれば、議論のための議論をしてませんか? ここでも、政治家としての物足りなさを感ずるある種のものが存在していると、僕は感じます。あなたの上記のコメントをみて、「1000人でも20人学級」という具体的な方針の確約がない(←もしも)中で、「20人学級から、1000人でもいいか」と思い違いをする市民がいるとすれば、あなたの責任は重いのではないですか? あえて、もう一度聞きます。「1000人でも20人学級」という具体的な方針等が、市当局から出ているのですか? そう、どうでもよいことですが、あなたが書かれている「実質的平等」が何をさしておられるのか、不明ですから、これに応答することは、そもそも難しい、と付け加えておきます。

さにら、議員は自らの発言に責任をもたなければなりません。責任をもつ、ということの一つは、その発言の根拠をしっかり示すことから始まる、と思います。そこで、あなたは、

「初等教育の性質上、結果の平等が求められるという主張には賛同いたします」

と述べ、

しかし、
「憲法26条1項と教育基本法だけをもって、その権利性が認められるかというと
疑問があります」

と主張します。ならば、「初等教育の性質上、結果の平等が求められるという主張には賛同いたします」とする柏野さん、あなたの根拠は何ですか? あなたは終始一貫、憲法25条に関する判例と、古典的通説の立場から、憲法26条の裁判規範性を消極に解するプログラム規定性でもって、私見に疑問を呈することしか、していないわけです。その先がない。比喩的ないいようになりますが、まさに「その先」を求めるのが、政治家なのだと僕は思います。あらゆる問題で、通説であるとか、あるいは、常識的な考え方だとか、はたまた「社会通念」であるとか、そうしたものに寄りかかっていては、「安泰」で、「楽」かもしれませんが、物事、前進はしません。こうした姿勢が、私の愚見に対する、あなたの応答の中にも、まま見て取れる、と思います。

また、あたなが指摘する「学校の適正規模(児童数の増加に伴う教育環境の「悪化」)」 も、実は、先端的な憲法学説では、憲法26条を、よりよい環境で適切な教育を受ける、子どもと親の権利である、と豊かに解釈しようとするものも、代表的な憲法学者から主張されているところです。しかし、あなたの教科書的な認識からいけば、「その先」を求めることなく、「通説判例はこうだから」として、ものわかりよく、さばいて終了、なんでしょうかね? 

議論のたろの議論をするのであれば、それ相応に、内外の平等論に関する文献や最新の研究成果をふまえてなさるのが、妥当だと思われます。これ、通説でしょう。

いろいろ愚見を書きましたが、最後にあなたが書いていること、すなわち、

「1)初等教育ほど地域との結びつきを強く持つ必要があること
2)通学の安全性と適正な距離
3)学校の適正規模(児童数の増加に伴う教育環境の「悪化」)
そして、「地域コミュニティの核としての小学校」 という理由で黄金地区で小学校を新設することが望ましいと考えています」

という判断ないし結論は、妥当なものとして評価します。

TITLE:
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そうそう、学校設置基準のことを書き忘れました。

「リベラリストさんのおっしゃる小学校設置基準に基づけば、第8条で運動場の
面積を、第9条で必ず備える教室を定めていますが、面積要件も備えるべき施設も
満たしていることになります。(それで十分だと言っているわけではありません)」

だから、なんなんでしょうね? これはあくまで最低基準です。政治家たるもの、「その先」がなければ駄目だ、という旨、今し方書きましたが、これも、「その先」のないものの見方ですね。法実証主義的な思考を、何の媒介もなく(すくなくとも記述からは御代見とれない)、政治の領域に持ち込むのは妥当ではないと思います。それで、何をどうしたいというのか。そうした議論を展開することで、政治家たるあなた自身の政策なり方針を実現する方向に貢献するのか。きわめて疑問です。また、学校設置基準のみの話ではなく、学校評価と同基準との関係もふまえて、同基準をどう機能させるべきか、これを上回る学校環境をどう実現していくのか、という観点も、政治家には求められるでしょう。無論、あなたが、「これで十分」といっているのではないことは、承知しています。

TITLE: 訂正
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私、リベラリストが上記に書き込んだ記載の中で、「プログラム規定説」とあるのは、「抽象的権利説」(柏野氏が依拠している学説)の誤りですので、ここにお詫びして訂正させて頂きます。くれぐれも誤解のないようお願い申し上げます。

TITLE:
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--
ここにあなたの「生」が感じられませんからね。まさに、私が、政治家たるあなたに欠如しているな、と感ずるもののある種のものが、ここに現れていると思います。また、私の議論は、そもそも裁判規範性そのものを直接的に意識した議論ではなく、あくまで運動のレベルで、憲法規範を足がかりとして何をいいうるのか、を論じたものであります。したがって、あなたが指摘する「権利性への疑問」というのは、的を得た指摘だとは言い得ません。
--
>>
私が述べたかったのは、このケースにおいては、憲法のみを足がかりとしては言い得ることはないという結論でして、それを解決する部分は政治であるということです。(憲法論とは別に、というくだり)

こう書くと、首長ばかりが政治家ではない、議員はそれでいいのか、というご指摘をいただくかもしれませんが、ここで問題となるのが、地方自治の議会の機能です。
マニフェストがなぜ(大選挙区の)議員選挙ではあまり機能しないのか、という理由と重なるのですが、議会は多数決で予算を否決することができても、議会から提案するということはできません。(市長がそのまま再提出することもできます)

物足りないというご指摘を受けても、「小学校を建てます」というお約束をすることは不適切だと考えるのです。

また、たびたびご指摘を受けていることですが、
「だから何なのだ」という点、ブログではできるだけ客観的に事実と論点を明確にしていくことを目的としています。ときに主観を交えているときもありますが、その際には主観であることが伝わるような記述につとめています。


--
「20人学級で1000人の学校と40人学級で300人の学校では単純に比較できないように、AもBも実現できなければ実質的平等が保たれないという性格のものではないと考えています」

と述べています。確かにその通りですね。ただし、抽象的な議論をして楽しんでいるのではありませんから、個別具体のレベルでお聞きしますが、和光小の増設後は、1000人を超えるマンモス校となっても、20人学級となるのですか、と。そうした見通しがあるのであれば、以上のような指摘も、「おう、そうか」と頷ける余地がありますが。そうした見通しなり方針が決定しているのでしょうか? もしそうした具体的な方針の決定がないまま、《素朴》に、あるいは、《単純》に、私の議論に応答すること《だけ》を視野に入れて、「20人学級で1000人の学校と40人学級で300人の学校では単純に比較でき」ず、したがって、「実質的平等が保たれないという性格のものではない」と書かれているのでしょうか? そうだとすれば、議論のための議論をしてませんか? ここでも、政治家としての物足りなさを感ずるある種のものが存在していると、僕は感じます。あなたの上記のコメントをみて、「1000人でも20人学級」という具体的な方針の確約がない(←もしも)中で、「20人学級から、1000人でもいいか」と思い違いをする市民がいるとすれば、あなたの責任は重いのではないですか? あえて、もう一度聞きます。「1000人でも20人学級」という具体的な方針等が、市当局から出ているのですか? そう、どうでもよいことですが、あなたが書かれている「実質的平等」が何をさしておられるのか、不明ですから、これに応答することは、そもそも難しい、と付け加えておきます。
--

>>
もとの記述を全文引用します。
--
また、その実現のために、学校の規模が小さいことと一人の教師が担当する子どもの数はできる限り
少ないことが求められるということを、「条理上」導かれていますが、20人学級で1000人の学校と
40人学級で300人の学校では単純に比較できないように、AもBも実現できなければ実質的平等が
保たれないという性格のものではないと考えています。
--

学校規模が小さい(A)と一人の教師が担当する子どもの数はできる限り少ないほうがいい(B)の両方が実現できなければ、リベラリストさんのおっしゃる「結果の平等」が保たれないというものではないと私は考えています。

数字をあげた説明は、そのための例示であって、市教委からそういった方針が出ているということはまったくありません。

--
さにら、議員は自らの発言に責任をもたなければなりません。責任をもつ、ということの一つは、その発言の根拠をしっかり示すことから始まる、と思います。そこで、あなたは、

「初等教育の性質上、結果の平等が求められるという主張には賛同いたします」

と述べ、

しかし、
「憲法26条1項と教育基本法だけをもって、その権利性が認められるかというと
疑問があります」

と主張します。ならば、「初等教育の性質上、結果の平等が求められるという主張には賛同いたします」とする柏野さん、あなたの根拠は何ですか?
--
>>
根拠ではなく、私の政治姿勢の問題です。
憲法が権利を保障しているかどうかではなく、私はそうであるべきだと考えています。


--
議論のたろの議論をするのであれば、それ相応に、内外の平等論に関する文献や最新の研究成果をふまえてなさるのが、妥当だと思われます。これ、通説でしょう。

>>
残念ながら、私の勉強が不十分であるために、これには満足にお答えできていないかもしれません。

TITLE:
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早々のお返事、感謝します。議論をすることはよいこと、です。この場は、政治家「柏野」が、政治の次元で何を考え、何をどうしようとしているのか、が、色々議論される場であると(勝手に)認識しています。その議論のツマとして、私は、たまたま「憲法」の実定法規定の解釈問題(法哲学的視座も踏まえて)とそれを根拠とする運動論を展開したということです。これに対して、柏野さんは、抽象的権利説を持ち出し、判例の立場を単に指摘したわけです。しかし、問題は、法学の定期試験をしているわけではありませんから(苦笑)、あくまで、この場は、政治家「柏野」が、政治の次元で何を考え、何をどうしようとしているのか、が、色々議論される場であるべきですから(私見)、「客観的に事実と論点を述べる」にとどまるのは、いらぬ誤解を招くのではないか、と私は思います。憲法解釈にかかわる学説・判例について、ただ純粋にご回答いただくだけでは、「それで、政治家柏野は、何を言いたいの?」となるわけです。客観的な事実や論点を述べることは、無論、必要なことですが、それにとどまっていては、ダメだ、ということなんです。なお、「私が述べたかったのは、このケースにおいては、憲法のみを足がかりとしては言い得ることはない…」旨、述べたあとで、「それを解決する部分は政治である」とされいるのは妥当だと考えます。ただし、前段については、別です。単に通・判をものわかりよく受け入れ、「言いうることはない」としてしまえば、学説の発展も望めないでしょうからね。これは、あらゆることに通ずるものではないか、と思います。古くは、大須賀氏の議論や、棟居氏の議論、さらには、岩本一郎氏の議論などの発展的な立論をみるべきことを進めます。政治でも法解釈でも、既存の枠組みの中であっても、それと格闘して、既存の枠組みを押しひろげることは可能であって、「(憲法解釈論の次元の話しですが)言いうることはない」としてしまうその思考は、何よりも、私が頼りなさを感ずるところであります。地方議会の「機能」の限界を問題とはしつつも、その中で最大限出来うること、あるいは、その枠を押しひろげるような事実上の政治的な立ち回りはできうるのだと考えますが、残念ながら、上記のような思考を根底においてもっておられる限りは、それはあなたにとっては難しい注文なのかもしれませんね。現状において、是非はさておき、「取るか取られるか」の泥臭い地方政治の現状の中で、そうした「綺麗な議論」(←決して間違っている、ということを意味していない)が埋没していくのが心配ですね。

なお、政治家としての信念のとして、そう思うから、というだけでは、トートロジーとの批判を免れ得ず、根拠薄弱かつ稚拙である、と私は思います。「なぜ」の中身を充填すべきだろうと思います。それが私の場合は、たまたま、法哲学上の、そして、教育哲学上の議論をも踏まえた憲法(解釈)だった、というだけです。あなたは、その根拠の充填において、空虚である、ということです。でも、結論には賛同しますよ。

最後に、「必ず第二和光を建設する」ということを宣言したり、約束をしたりすることを、私は柏野さんに求めているわけではありませんので、誤解のないように。ただ、「増設」には反対だ、というのであれば、増設阻止に向けて、あらゆる手段を講じて、体を張って止めろ、と、そのハラをくくれ、と言っているわけです。しかし、それでも、増設となってしまう場合も、当然、あり得るわけです。それは、それで仕方のないことです。

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市や教育委員会の話しを聞くたびに
この増設案が、
「見切り発車」で行われているのではという印象が拭えません。
想定外の問題が後から起こったても
増設さえ済んでしまえば
後は「現場任せ」という感じにさえみえます。

児童数1000人を越えるであろうマンモス校において
限られた特別教室での授業、
例えば
 パソコンや理科の実験、音楽、調理実習や図工、
 プールの授業などはきちんと行えるのでしょうか?

昼休みに友達と自由に遊ぶ場所や時間は確保できるのでしょうか?
大切な行事である学芸会や運動会などにも様々な
制約が出てくるのではないでしょうか?

多目的ホールを作れば、いろんな用途に使えるからいいという曖昧な事ではなく
1年間の授業・行事を細かく考えた時に
果たして多目的ホールが本当に有効に使われるのでしょうか?

子供にとって小学校の6年間というのは、非常に大切な時期だと思います。
そういう時期だと皆さんも認識しているからこそ
この問題について心配しているのだと思います。

市長が増設を決断するにあたって
議会ではどのような議論が交わされたのでしょう?

今後の見通しについて伺いたいのですが
市長が考えを改めて
新設するというようなことが有り得るのでしょうか?

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>リベラリストさん

返事が遅くなりまして申し訳ありません。

私も團藤重光さんのような法解釈は好きです。
ただ、私はリベラリストさんがここまでおっしゃってきているように、法律を解釈する立場ではないわけです。解釈できないものは、作る必要があるのです。しかし、その立法権は現行の憲法や自治法の制約の範囲内です。

和光第2小を建てるべきという考えは、信念というよりは、まちづくり的視点といいましょうか。その地域の政策課題の解決のために、地域コミュニティの核となるソフトが必要だと考えています。残念ながら、厳密な学問的裏付けがあるわけではありません。

例えば、島松のコミュニティ。小学校だけではないでしょう。ハードとしては公民館や地区会館などもあります。そこでこれまで長年つちかわれてきたもの。それが今の強い連帯感を生み、必ずしも行政によらない問題解決能力を生んでいます。これが黄金の将来に必要だと思うのです。

私が繰り返し言っている、狭いから(学習環境が悪くなるから)建てるのではないというのは、その意味です。(もちろん、前述しているように子どもたちはどうでもよいということでもありません)

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>ぽとふさん

まだ想定していないことが出尽くしたとは言えないと思います。
議会ではもう何年も前から、行沢議員をはじめとして何人かの方が狭あい化に
よる学習環境の悪化は訴えてきているようです。

詳細については大変申し訳ありませんが、私がすべてを説明することは
できませんので、議事録をご確認ください。
和光小などで検索すればヒットします。


> 市長が考えを改めて
> 新設するというようなことが有り得るのでしょうか?

例えば、増築の予算が提案されたときに(来年1月以降)、議会がその予算を
否決または修正すれば、市長は再考することになります。
ただ、段取りとしては、いきなり新築での予算づけとはならないため、
これまでの説明会でも言っているように、1年以上遅れることになります。

その時点より前に、「確実に議会が否決する」ということがわかっていれば、
今の考えを改める必要が出てきます。
そのためには、今の「新設分離を求める陳情」よりも明確に「増築に反対する」
決議でなくてはなりませんが、それが議決されるかは、すべて世論の動向
次第だと言えます。

いかに財政が厳しくても、子どもたちのためには学校を新設すべきという声が
市全体に広がるか、財政事情を勘案すれば増築もやむなし、となるかです。

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プロフィール

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柏野 大介
(かしわの だいすけ)

大学を卒業後、2度の就職と合計約2年の旅行を通して、常識や慣習といった言葉に囚われない道を模索し続けています。
外に出たことで、日本、北海道への愛着はさらに強いものとなりました。

2007年4月、恵庭市議会議員当選。
2009年12月、北海道議会議員選挙に挑み落選。
市民とともに創る自治の確立のため、「見える北海道」の実現を目指し活動中。

ご意見・ご質問などはメールでお願いします。
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